2012年04月26日

●のりたま日録5

このところサボっているが、基本設計ミーティングは毎週続いている。だんだんプランの精度が高くなって、Kさんとセンチ単位でプランニングをああだこうだと進めているのである。
雑談の中で、建築家が模型をどう扱うか、という話をうかがう。Kさんも妹島和代も青木淳もみんなそれぞれに方法論が異なるという話が興味深い。あと、青森県立美術館のこととか、金沢21世紀美術館とキルヒナー美術館の関係とか。

2012年04月06日

●のりたま日録4

昨夜、Kさん事務所で4回目の基本設計ミーティング。
いよいよ正式に「設計監理委託契約書」を取り交わす。少ない予算と限られた時間の中、僕らの無理な希望を涼しい顔で次々と叶えてくださるKさんと所員の皆さんには感謝の言葉もない。
改めてよろしくお願いいたします。

そして今朝、ほぼ固まりつつあるイメージをもとに、同居することになる母親にもプランの説明をする。おおむね納得してもらったが、変更部分も出てきそう。またまたKさんに相談しなくちゃである。

2012年04月03日

●住宅哲学7 「例外状態」としての基本設計

施主が建築家と取り結ぶ関係というのはどういったものだろうか。
建築家とは建築の専門家だが、専門家というのはそれぞれの専門的な言語体系を身につけた者という意味であろう。
弁護士なら法という言語体系を、医者なら医学という言語体系を共有するように、建築家は広義の建築言語を共有する専門家集団の一員である。
彼らは(顧客であり素人である)僕らの行為や意思を専門的な言語体系に置換する。
弁護士ならばそれを法言語に「翻訳」(代行=表象)するし、医者は我々の身体の症候を医学言語として「解釈」する。
しかし建築家がおもに行う仕事は、それらともどこか異なっているように思われる。

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2012年03月29日

●のりたま日録3

昨夜、Kさん事務所で3回目の基本設計ミーティング。
前回提示されたスタディを手掛かりに、自分たちの希望をあれこれ聞いていただく。
個々の場面場面のイメージがだんだん具体的になってくるとともに、住宅全体の主題も明瞭になってくる。
「巨大なスクリーンに対面する劇場のような住居」だ(スペクタクル!)。
ただその場合、やはり「階段」をどうレイアウトするかが最大の課題になってくるかもしれない。

2012年03月22日

●のりたま日録2

昨夜、Kさん事務所で2回目の基本設計ミーティング。
建物の輪郭がはっきりしてくるとともに、生活の輪郭も徐々に想像が膨らんでくる。
ここを会社の事務所にして、あそこを書庫にして、じゃあ自分の原稿は1階のこのテーブルで書こうかなあとか。その時家族はここにいるのなあ、とか。
つうか、問題は夫婦それぞれの職場を住宅に押しこめてしまったから、荷物の量がハンパないのだ。
収納どうする? というのが最大の悩みとなりそう。

2012年03月19日

●住宅哲学6 制作物としての住宅

前回「住宅」は「建築」でも「インフラ」でもない、と書いた。住宅は「小説」と同じく、近代に誕生した「雑」=多声的な生産物なのだ。にもかかわらず、それは他の作品/製品に比較して特異ななにかである。
今回は視点を変えて、制作物としての住宅について考えてみよう。

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2012年03月14日

●住宅哲学5 なぜ「住宅」で「哲学」なのか?

ところで、なぜ「住宅」で、なぜ「哲学」なのだろうか。

という問いの前に念のため断わっておくが、この文章は「建築哲学」ではない。
建築に関する哲学とは建築の本質への問いであって、そうしたことは建築家や建築界――建築する人たち――が考えるべきことだし、実際考えているのだろう。

だったら「住宅哲学」とは住宅の本質について考えることで、それは住宅に住む人――つまり僕自身――が考えなくてはならない、と思うのである。たとえば毎朝何を食べるのか(あるいは食べないのか)を考えるのが、当人の「健康哲学」であるのと同じように。
じゃあ住人にとって住宅の本質って何なんだ?

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2012年03月12日

●住宅哲学4 集合住宅は建築か

 中沢新一・伊東豊雄「建築の大転換」(筑摩書房)を読んだ。中沢についてはここで何度か論じたので触れない。伊東は中沢をブレーンにしているようだが、伊東が依拠するこの種の「反近代主義」の胡乱さは、その主張が都市にそのまま適用可能かどうか考えてみるとわかる。

おそらく伊東は、現在東北で試みているような建築を、彼自身の生活する東京やバルセロナに適用してみようとは考えないだろう。

「近代主義に基づく都市の均質空間は、経済性もあるし、高層化も容易ですし、人間の世界にさまざまな恩恵を与えてくれました。そのこと自体を否定するつもりはありません。しかし、一方で、近代主義的均質化によって人間がかなりスポイルされているという事実が間違いなく存在していて、「そうではない方向の建築もあり得る」という思いをずっと抱いていました。東北という、共同体=社会が息づいている地域での復興計画に携わりながら、私はあらためて近代主義に基づく建築から大転換して、本来建築家のとるべき姿勢で、社会とかかわる建築に取り組んでいくのだという思いを新たにしています。」(「建築の大転換」)

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2012年03月01日

●住宅哲学3 「スペクタクル」としての住宅/ローン

 今日、Kさんの事務所で(仮称)「のりたまハウス」の基本プランについて初の打ち合わせをした。その前から妙にフワフワと落ち着かない気分だったのだが、あとから考えると「家を建てる」という思いつきがついに現実となってしまう、という事実を前に、どうも気後れしていたにちがいない。人生最大の散財というか消費活動であって、これがつまり「スペクタクル」というやつなのか? というか、要するに素人で気が弱い、というだけなのだけど。
 しかもKさんにプランの方向性を提示してもらうと、これがどうもカッコよくなりそうである。Kさんがついに降臨した建築の神さんから授かった閃きに、独特の光=空間を加えたコンテンポラリーな労作である。何かもっともらしい質問もした気もするが、じつは「こんなカッコよい家に住んでいいのか」と、やはり内心ビビリっぱなしなのだった。井の頭五郎に家具を注文しよ~かな~、などと言いながら帰宅。次回の打ち合わせが楽しみ。

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2012年02月26日

●住宅哲学2 街路のような、動物園のような家

 「標準世帯」のようではない家、というのはどのようなものなのだろうか。たぶん、それはいわゆるnLDKモデルに適合するものではないはずだ。前にも書いたように、LDKというのは「核家族」を基準にした、L(リビング)・D(ダイニング)を中心に夫婦の寝室および子供(1~2名)の個室nが置かれるスタイルだ。LDKは家族が共有する場であると同時に接客スペースでもある。LDKモデルは仕事の時空間を外部に放り出すことで成立する。それはたとえば亭主がサラリーマンで昼間は会社に通勤する、というような不在の時間帯に家族の行動が同期している、ということである。簡単に言えば、オッサンが平日の昼間から家の中でブラブラしているようでは困るのだ。しかし僕らが必要としているのは、夫婦の部屋と母親(朝の早い老人)の部屋、そして夫婦それぞれの仕事部屋ということで、LDは必ずしも求めていない。しかも僕らは昼夜を問わず家で働いている場合も多いし、妻はピアノを弾いたりオーディオで大きな音を聞くことが仕事の一部であったりするのだ。昼間から家族三人それぞれが非同期的に家の中をウロウロしているのである。

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