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   <title>退屈帝国 Neo2/にょにょ</title>
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   <subtitle>西澤羊爾x月野定規によるつれづれブログ。</subtitle>
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   <title>「映画芸術」に寄稿しました</title>
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   <published>2012-01-27T07:56:09Z</published>
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   <summary>1月30日発売の「映画芸術」438号に安井豊作著「シネ砦炎上す」（以文社）の書評...</summary>
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      1月30日発売の「映画芸術」438号に安井豊作著「シネ砦炎上す」（以文社）の書評を寄稿しました。
ちなみにこの号は恒例の「ベストテンワーストテン」が掲載される号で期待されている方も多いと思いますが、目次を見ると（ボクの原稿はともかく）いつにもまして気合いの入った内容みたいでボクも楽しみにしています。
      
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   <title>山本理顕・他「地域社会圏主義」（INAX出版）</title>
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   <published>2012-01-20T03:22:19Z</published>
   <updated>2012-01-20T16:29:57Z</updated>
   
   <summary>やっと仕事が一息ついたけど、正月からこっち、憂鬱な日々が続いています。 しばらく...</summary>
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      やっと仕事が一息ついたけど、正月からこっち、憂鬱な日々が続いています。
しばらく引き籠りです。
      建築家による新しい中間団体論というべきなのだろうか。戦後の持ち家政策と今日の新自由主義経済に対抗する新たな地域コミュニティの創出の試みであり、そのこと自体は非常に興味深いものだ。しかしこの種の新しい「ユートピア」が――具体的な数値とイメージで語られれば語られるほど――説得力を欠くように感じられるのはなぜなのだろうか、と考えてみる。

おそらく建築家は、モダニズムの都市計画のようなある水準までは普遍的で遍在的に適応可能な抽象性の高いプランではなく、横浜のある地域という設定に根ざした限定的なプランニングとして提出している。だから社会変革ではなく、現状の社会状況をある程度前提としたということだ。それはあくまで暫定的で一時的な共同体としてあるはずである。
もちろんそれが「革命」的でないから、という理由で批判するつもりはない。そうではなくて、だとしたらそのコミュニティ（地域社会圏）と「外部」との関係性をもっと本質的に問い詰めてみなければ、一見現実的でありそうな提起だが、結局は建築家の夢想で終わってしまうだろう。

この本には、コミュニティ＝「地域社会圏」でどのような暮らしが可能かが事細かに記されている。しかし端的にいって、ここに住む人々がどんな人々（階層）で、当初どのように参加し、どのような条件で離脱するのか、あるいはコミュニティを誰がどのように立ち上げ、どのように終わらせるのか、そうしたいっさいに触れられていない。もしかしたらそれについて思考することはすでに「建築」という領域を超えているのかもしれない。それはたんに社会のグランドデザインというだけでなく、たとえば「ミル・プラトー」で論じられていた「地代」といった問題にまで及ぶものかもしれない。いずれにせよ普遍的で永続的なプランではなく、暫定的で一時的な共同体なのであれば、何よりもまずそれを考えるのが前提となるはずだ。

「地域社会圏」は閉鎖的なカルトではない。むしろ住民のある一定の流動性が前提とされる、ある意味では新自由主義的な生活意識にも親和的なコミュニティである。住民は幼児から老人まで圏内で事業を行う小さな起業家であり、そこに労働者は存在しない。いるのは「サポーター」という名のサーバントである。おそらく住民は決して裕福ではなく、しかし完全な失業状態にもいたっていない。つまり今日的な（没落解体中の）中産階級のための共同体なのだが、要するにそれは西沢大良の「現代都市のための９か条」でいわれる「スラム」である。実際、風呂やトイレが共同使用なんて集合住宅がスラムでなくてなんだというのか。

もちろんスラムの生活改良という話じたいは悪い話ではない。今後大量に産出される解体しつつある中産階級のために、むしろ自治体などは実践的に取り組むべき課題とすらいえる。だがスラムは結局スラムなのであって、結局はせいぜい過渡的なアジールにすぎないというべきなのである。それをあたかも目指すべき楽園であるかのように糊塗するような言説は、やはり「反動」以外のなにものでもあるまい。
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   <title>謹賀新年</title>
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   <published>2012-01-07T04:08:25Z</published>
   <updated>2012-01-07T04:12:46Z</updated>
   
   <summary>正月からユーロ安やらイラン情勢やらがきな臭い2012ですが、なるべくなら今年で世...</summary>
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      正月からユーロ安やらイラン情勢やらがきな臭い2012ですが、なるべくなら今年で世界が終わらないでほしい、と本気で祈念するお正月です。
      年末年始は毎年仕事が立て込むのでほとんど休暇らしいことはしなかったのだけど、昨夜は池袋サンシャイン劇場で第三舞台の解散公演「深呼吸する惑星」を見て来た。
もはや歴史の遺物に近いバブリーな演出だった（客層も80年代を知ってる世代の人が多かった）けど、それはそれで面白いものだった。
SF仕立ての設定で、60年前に人類に占領されたある惑星で人々に嘲笑されながらも「独立」を呼びかけるアナクロな反逆者の物語というのは、あからさまに東大安田講堂陥落以降の40年間の日本社会のアナロジーであり、その観点からはミュージカル「レ・ミゼラブル」におけるフランス７月革命＝1968年のアナロジーと同じで、それらがどちらも終演を迎えたというのは、たとえばスティーブ・ジョブズが象徴していたこの４０年間の文化史的な潮流（「第三」＝「想像力」による現実の超克）の終焉のひとつ、ということである。

今年はどうも否応なく大きな政治的変動がありそうで、ユーロ安だわ中東は限りなくきな臭いだわと、それらの大きな津波がボクらの生活レベルにまで達してへたをすると飲み込まれてしまいそな気がするけど、「すべては変わって、変わるの」という短編映画「マリアの本」にあった台詞が不意に記憶の底から蘇ってきて、諦念とかすかな希望を抱きながら何とか人生を凌いでいこうと思うのでした。
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   <title>あけましておめでとうございます</title>
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   <published>2012-01-01T01:31:30Z</published>
   <updated>2012-01-01T01:40:36Z</updated>
   
   <summary>年末イベントに来られた皆様お疲れ様でした＆ありがとうございました☆ スタッフ数が...</summary>
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      年末イベントに来られた皆様お疲れ様でした＆ありがとうございました☆
スタッフ数がいつもより少なかったので僕も売り子をしたり、列整理したりで一日がっつり肉体労働に励みました（笑）おかげさまで大きな混乱も無く無事にイベントを楽しみながら終了する事ができました。

昨年は大きな災害に見舞われて多くの方々が大変な目に遭われた一年となりましたが、日々原稿制作に専念できるわが身の幸運と幸福をかみ締めて、今年も頑張って精進して参りたいと思っています。

「エロ漫画家が何真面目な事言ってんだよ」と思わず自分でノリツッコミしてしまいそうな文章の流れになりそうなので（＾＾；この辺でぶった斬りつつ…

本年も「退屈帝国」と「むうんるうらあ」を宜しくお願いします～☆
おっぱいおっぱいπ♪
      
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   <title>コミケ情報です～</title>
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   <published>2011-12-19T02:39:33Z</published>
   <updated>2011-12-19T02:51:19Z</updated>
   
   <summary> おくればせながらコミケの告知をさせていただきます。 今回の配置場所は３日目シ-...</summary>
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      <![CDATA[<a href="http://ttn2.org/upImages/c81post.html" onclick="window.open('http://ttn2.org/upImages/c81post.html','popup','width=411,height=580,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://ttn2.org/upImages/c81post-thumb.jpg" width="82" height="116" alt="" /></a>
おくればせながらコミケの告知をさせていただきます。
今回の配置場所は３日目シ-19ｂ「むうんるうらあ」です～。
新刊は「まじこい」本（８ｐの会場オマケ冊子付）。それと、既刊の総集編「むうんるうらあくろにくるＢＯＸセット」です。

今回も新刊は「とらのあな」さんと「メロンブックス」さんにて取り扱っていただきますが、加えて「ブックメイト」さんでも扱っていただけるようです。
ネット通販で予約もできるようなので何卒宜しくお願い致します～
「とらのあな」＞<a href="http://www.toranoana.jp/mailorder/article/04/0030/00/92/040030009244.html">http://www.toranoana.jp/mailorder/article/04/0030/00/92/040030009244.html</a>
「メロンブックス」＞<a href="http://shop.melonbooks.co.jp/shop/sp_212001045945_munruura_shinken.php">http://shop.melonbooks.co.jp/shop/sp_212001045945_munruura_shinken.php</a>]]>
      
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   <title>ジジェクによる『こうもり』／『こうもり』によるジジェク</title>
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   <published>2011-12-05T04:03:45Z</published>
   <updated>2011-12-05T04:10:31Z</updated>
   
   <summary>あまりに忙しくてここを更新する暇もありません。 特にネタもないので、昨年夏に「ユ...</summary>
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      あまりに忙しくてここを更新する暇もありません。
特にネタもないので、昨年夏に「ユリシーズ」という雑誌に掲載したコラムを転載します。
去年までは、リーマンショックから一息ついてまだしも「幕間」という気配を漂わせていた世界情勢ですが、EUがとうとう地獄の釜を開いてしまいそうな来年は果たしてどうなるのでしょうか。
ちょっと気が早いですが、この先どうなるかわからないので、ひとまずよいお年を、と皆様に申し上げておきます。
      　六月にヨッヘン・コヴァルスキーがウィーン・シェーンブルン宮廷劇場と銘打ったオパーとともに来日した。八〇年代なかばにカウンターテノールの世界的なブーム（日本では『もののけ姫』の米良美一で知られる）の火付け役となり、その白眉として第一線で唱い続けたコヴァルスキーもすでに五〇代もなかばをすぎて、日本でかれを聴けるのはもうそうそうないかも？　という知人の誘いにのせられて観にいった渋谷オーチャードホールでの演目はヨハン・シュトラウス二世（一八二五―一八九九）のオペレッタ『こうもり』、もちろん当たり役のオルロフスキー公爵である。
　一九世紀フランスのヴォードヴィルを原作とするこの傑作オペレッタは今日でもしばしば舞台にかけられるのでご存じのかたも多いかもしれないが、「こうもり博士」と綽名され侮辱をうけた男の復讐という趣向で舞踏会が催される、その第二幕が最大の見所である。女中が若手女優に、金持ちの奥方がハンガリーの貴婦人に、刑務所長がフランスの騎士に変装するこの夜会の主宰者こそ、ロシア生まれの裕福で退屈しきった若い貴族のオルロフスキーなのである。
オルロフスキーは通常メッゾ・ソプラノの男装した女性歌手かテノールの配役になるが、コヴァルスキーのカウンターテノールはそこに或るなまなましい頽廃の強度を加えたといっていい。所詮は「すべてシャンパンの泡のせい」という上流階級のコップの中の嵐にすぎないこのカーニヴァル的なドタバタ喜劇が、ヴェルサーチを愛用するコヴァルスキーの流麗で高貴な声と容姿とが暗示する性の亀裂と倒錯によって、一挙に現代的なドラマとして甦ったのだった。「もしここで退屈している人がいたら、私は遠慮なく放り出す」「私が飲んだら客も飲む、遠慮は許さない」とうたうオルロフスキーのクープレ「私は客を呼ぶのが好き」は、まるでスラヴォイ・ジジェクのいう「享楽せよ」と命じる超自我の命令のように響いてくる。ジジェクによれば、自我の裏面である超自我はわれわれに享楽を禁止するのではなく、逆にそれを義務として強制する。その超自我の命法にジジェクは現代の資本主義の非抑圧的で快楽主義的な機能を見据えているのだが、旧ユーゴスラビア（スロヴェニア）出身のジジェクがラカンの精神分析理論を駆使したヒッチコック映画の評論で名を馳せたのとほぼ同時期にカウンターテノールとして名声を博した同じ東欧（旧東ドイツ）出身のコヴァルスキーこそ、まさにジジェクの現代文化批判の核心を体現した存在だったのではなかっただろうか。
　今年邦訳が出版された『大義を忘れるな』（青土社。原著は二〇〇八年刊）で、ジジェクはスターリン時代のソ連の再評価という際どいテーマを取り上げている。ジジェクによれば、スターリン主義とはブレジネフ以降の硬直した官僚社会ではさらさらなく、むしろ今日の権力者が明日には粛正されかねない一種のカーニヴァル化した社会だった。だからその革命的恐怖政治はレーニンからの離反でも裏切りでもなんでもなく、むしろその延長にあったと主張するのである。
　スターリンを「伝統的な〈主人〉ではなく「〈無秩序の王〉」、つまり、カーニバル的な転覆を取り仕切る者」として評価するのはいかにもジジェクらしい、血塗れのアイロニーが効いたトリッキーな言説だとは思われるが、いっぽうでそれはチェスタトンを愛好する「保守主義者」ジジェクの面目躍如といってもいいのかもしれない。ジジェクはここでヨハン・シュトラウスのオペレッタのいかにも軽薄なあらすじを素直に復誦しているにすぎないのではないか？　別の著書（『パララックス・ヴュー』作品社、二〇〇九年）でジジェクはこれを「スターリン主義的ミュージカル」と呼んでいるのだが、要するにそのミュージカルはロシアからパリに及ぶヨーロッパ文明のごった煮（精髄）としての一九世紀ウィーン・オペレッタのリメイクである。ここではジジェクによって『こうもり』を読むのではなく、むしろ『こうもり』によってジジェクを読むべきなのだ。ただしアウシュヴィッツ以降、さまざまに面白げなキャラクターたちの共演する悲劇あるいは笑劇として歴史を表象することは「野蛮」とまではいわないものの、それなりに手痛い対価を支払わなくてはならない。
　では、『こうもり』に従ってジジェク描くところの現代のコミュニズムの見取り図を解読するとどうなるのか。ジジェクの批判はおもに今日的な一種のアナーキズム運動に向けられている。具体的には一九九〇年代の反グローバリズム闘争とそれ以降の左派の置かれた状況についてである。「私は客を呼ぶのが好き」のリフレインは &apos;S ist mal bei mir so Sitte, Chacun à son goût!（誰もが好きなように楽しむ、それが私の決まりだ）というのだが、ドイツ語の前半（Sitte：custom）とフランス語の後半（goût：taste）との分裂にそれはアナロジーできるのだ。つまりジジェクの評価する、資本制が強いる「包摂」と「排除」に対抗するコミュニズム、「敵対性に立ち向かう運動」としてのコミュニズムがSitteを強調するとしたら、ジジェクの批判するネグリやハート（「マルチチュード」による「生の生産」の称揚）はgoûtを強調するのだ。第二幕でのSitteがカーニヴァルの王の命令を意味するのに対して、第三幕でオルロフスキーは女中が女優を夢見ること（goût）を手助けしようと申し出、それがわたしのSitteなのだからと語る。ここでのSitteとはまさしくマルチチュードの潜勢力を解放する「一般知性」を意味している。しかもそれぞれのgoûtが称揚される第三幕の舞台となるのは、皮肉にも刑務所の中なのである。
　ここで『こうもり』が執筆された一八七三年末という時期に注目すべきだろう。一八二一年生まれのフローベールなどとほぼ同世代の子シュトラウスもまた、一八四八年の三月革命では革命派の隊列に参加している。その後のフランツ・ヨーゼフ一世のもとでの市街再開発（城壁の撤去とリング通りの整備）によってウィーンの景気は復興しつつあり、一八七三年には社会の近代化の象徴として万国博覧会が開催された。だがいっぽうでハプスブルク帝国は一八六六年にプロイセンに手痛い敗北を喫し、さらに万博開催直後に「暗い金曜日」と呼ばれる株価の大暴落も起きている。二〇〇八年のリーマン・ショックを連想させるバブル経済の崩壊のさなかで、『こうもり』はそんな世間の狂騒に追われるようにたったの四二日間で作曲された弔いの合唱となった（初演は翌一八七四年四月）。このオペレッタはヨハン・シュトラウスなりの「感情教育」だったのかもしれないのだ。
『こうもり』が表象するのは、一八七〇年の普仏戦争（およびパリ・コミューン壊滅）後の帝国主義化しつつあるヨーロッパである。登場人物たちの名前には当時のヨーロッパの国家関係が暗示されているという。たとえば主役のアイゼンシュタインがプロイセン、ファルケ博士がハプスブルクというふうに。「ファルケが仕組んだ復讐劇とは、プロイセンに対するハプスブルク帝国の復讐ではなかったか。ただしこの復讐は、武力ではなく、あくまで歌と笑いとを基本としている」（小宮正安『ヨハン・シュトラウス』中公新書）。こうして『こうもり』化したジジェクのまなざしのもとで、スターリン主義もアナーキズムもともども「歌と笑い」に帰着することになる。ジジェクの批判は、たとえば岡田利規の『三月の5日間』のような現代的な装いをこらした素朴な疎外論の復活に対してはそれなりに有効だといえよう。しかし同時に返す刀で「もう一度、本気でコミュニズムに取り組むべきときだ！」（『ポストモダンの共産主義』ちくま新書、二〇一〇年）というジジェクの主張じたいが、みずからの言説によって裏切られているともいえる。つまるところジジェクの掲げる「大義」もまた「スラムの惑星」（マイク・デイヴィス）の現実から乖離しているのではないだろうか、まるで酔いに任せて「忘却の喜びを満喫する」ヨハン・シュトラウスのオペレッタのように。

（「別冊クロスビート［ユリシーズ］№4」2010年8月）
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   <title>「ゲルランゲ」の結末</title>
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   <published>2011-11-01T02:13:32Z</published>
   <updated>2011-11-01T09:18:42Z</updated>
   
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      人生の曲がり角で、日々、足踏み状態が続いています。
こんなとき、ツイッターなんか見てると、歴史はどんどん更新され、あらゆる人々からあらゆる瞬間に画期的な思考が生まれ、出版されるあらゆる本がどれも傑作ぞろいで、自分だけどんどん時代に置いていかれる気がしてくるから不思議だ。
しかしその一方で地震が起きようと放射能まみれの生活だろうと、この世界の停滞感はまるでかわらないのだから、まさかそんなはずはないと思うのだけれど・・・。
      ちょ～退嬰的な気分なので、ちょっとそういう話を。
子供の頃、さほど絵本にはまるたちではなかったものの、それでも人並みに「ちいさいおうち」や「いやいやえん」は繰り返し読んだ記憶がある。
しかし、なんといってもいちばん好きだったのは「おそうじをおぼえたがらないリスのゲルランゲ」（福音館書店、山口智子訳）だった。
もちろん「おそうじ」を覚えるのが嫌で嫌で家出をするという物語に強く情動を揺すぶられたからだったけど、後年かたつむりを食べるのが厭で木の上に家出したカルヴィーノの「木登り男爵」が大好きになったのもゲルランゲの延長にように思えたからなのだろうし、自分自身、大人になってもお掃除（に象徴される労働）がいやでいやで家出のような生活を繰り返していた、結局ゲルランゲのような生き方をしてきたのだなあ、というしかない。

なんてことを思い起こしたのは、たまたまこの絵本を30数年ぶりくらいにふたたび手に入れたからなのだが、今回読み返してみてどうも納得いかない部分があるのだ。
それはラスト、ゲルランゲが家出からおばあさんのもとに戻ったところで、翻訳ではこうなっている。

「けれども、ゲルランゲは、しんは、気だてのよい子リスでしたし、おばあさんをよろこばせたいともおもいましたので、この冒険のあと、ともかく、おそうじをおぼえました。」

う～む、しかしボクの記憶では、ゲルランゲは相変わらずお掃除を覚えないまま、やっぱりのらくら者として過ごしていました、という感じだったはずだったのだ。
で、その反省なきのらくらっぷりに感動していたはずなのだけれど、これこそ自分に都合のいい記憶の改変というやつなのだろうか？
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   <title>秋</title>
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   <published>2011-10-11T08:38:02Z</published>
   <updated>2011-10-11T13:17:11Z</updated>
   
   <summary>八束はじめ「ハイパー・デン・シティ―東京メタボリズム２」を読む。約半世紀後の未来...</summary>
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      八束はじめ「ハイパー・デン・シティ―東京メタボリズム２」を読む。約半世紀後の未来へむけたプロジェクトでありながら、八束のテキストには強いニヒリズムが漂っている。
善悪の彼岸にあるコールハースの「ビッグネス」がニーチェ的だとしたら、八束の「悪の都市計画」はさながらドストエフスキーの「大審問官」である。
とはいえ、「密度」と「コンパクト」には原子力が不可欠なのか、不要なのか、結局なにひとつ触れていないのはやはり奇妙だと思う。

      ある晩、「外で虫が鳴いているね」と妻が言った。すでに深夜で、時折通りを走る車の音のほかにボクにはなにも聞こえない。しかし鈴虫やコオロギがうるさいほど鳴いていると妻はいう。ボクは耳を澄ましたが、キーンという音にならない音のような気配がするだけで、やはり無音のままなのだ。その音はボクの年齢の耳には聴くことのできない音域なのだろう。おそらくボクにはもう今後その音を二度と聴くことができないのだ、という悲哀。
しかしその時、不意にボクは「無」が何なのかを理解したのだ。自分には何も聞こえない空間には、しかし虫たちのさざめきが満ちている。それは自分が死んだ後の空間なのだと。それを「無」と呼ぶのは、たかだかボク自身の不在を対象に転移した記号に過ぎない。
「無」とは「ない」という意味ではない（存在に対立する絶対的な無をそのままで思考することは人間のう能力を超えているだろう）。そうではなくて「無」の場がある。そこにはさまざまな存在で満ち溢れている。妻はそれにいつまでも耳を傾けているだろう。ただその場には自分がいないだけなのだと。そしてその感覚はなぜかボクに歓喜を引き起こすのだ。
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   <title>「家の外の都市の中の家」</title>
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   <published>2011-10-02T12:53:28Z</published>
   <updated>2011-10-02T14:22:36Z</updated>
   
   <summary>今日でオペラ・シティのこの展示が終了するので、あわてて見にいってきたのだ。...</summary>
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      今日でオペラ・シティのこの展示が終了するので、あわてて見にいってきたのだ。
      日本の戸建て建築の平均寿命が26年というのははじめて知ったのだが（ちなみにイギリスは100年超）、その立て替え（住み替え？）を一種の「メタボリズム」（新陳代謝）と見なして、ただしメガストラクチャー的な「コアシステム」ではなく「ヴォイド」（空隙）を不在の核として都市を生成する、という発想は、しかし率直にいえば現状の都市政策に無条件に順応した前提による、あまりに「建築」内部の視野に留まっている理屈であるような気がする。
なにより建物と建物の隙間のような路地は生活にとっては26年で消滅する建物そのものよりもはるかに実在する「場」であって、それを「ヴォイド」とよぶのはたんなる建築家の知的傲慢である。
「森山邸」のような試みはあきらかに東京に放射性物質が降り注いだ3.11以前の前衛というしかないし、法的・政治的・経済的な変革にいっさいコミットせずに「コミュニティ」を建築的技法のみで生成するというのはあまりに建築プロパーに自閉した発想で退屈だ。今日的なアカデミズムの典型である
「アトリエ・ワン」にしても、はじめから年齢もそこで過ごす目的もほぼ共通の者たち（建築家のアトリエで働く人）が出入りする家であって、それを「拡大された家族」と呼ぶのはやはりレトリックによるごまかしにすぎまい。
そこには老人や赤ん坊の生活がはじめから排除されており、その排除を前提とした特殊解である。つまりまだ機能主義の尻尾を引きずっているのだ。
しかし「家」とは、それぞれ異なる生活の意識や習慣や目標を持つ者たちが一つの「空間」を共有するということではないか。
たとえばこれから実際に「家」を建てようという者にとって、そこには一つの「空間」に複数の「場」をどう重合させるか、という機能主義とはまったく異なる課題が登場するはずだ。それを考えない「生活」だの「コミュニティ」だのといった概念は机上の空論でしかないのだ。
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   <title>やっと一息</title>
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   <published>2011-09-26T05:09:35Z</published>
   <updated>2011-09-26T05:21:37Z</updated>
   
   <summary>いや～今回の進行はヤバかったなぁ；；ｗ なんというか、ネームにすごい時間かかっち...</summary>
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      <name>月野定規</name>
      
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      いや～今回の進行はヤバかったなぁ；；ｗ
なんというか、ネームにすごい時間かかっちゃって；；；
原稿は上がらない限りその間ずっと精神的にキツイ状態が維持されるのでメンタルコントロールが大変です；；。
まあ、おかげさまでホットミルクの連載はなんとか最終話まで原稿納品できました。カラー４枚とモノクロ３０枚計３４枚が次号に掲載されますので何卒宜しくお願いします！

単行本化されるのは…多分来年の早いうちになるのではないかと。その辺をこれから編集さんと打ち合わせします。台割りの都合もあるのでまだなんとも言えませんが、個人的には今回は描き下ろしもそこそこには付け足したいと思っております。
具体的に決まったらまた改めて告知します。

それとその間にもホットミルクには引き続き隔月で何か描くことになると思います。何やるかはまだ未定ですが。


他にも何かいろいろあった気がするのですが…忘れちゃった；；；歳を取るとどうも記憶が；；；

そんなわけで今回はこの辺で。
      遅ればせながら夏コミ参加された方々お疲れ様でした；；！って遅ればせすぎですね；；
冬…何描こうかなー…
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   <title>メタボリズム展という「政治」</title>
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   <published>2011-09-20T08:16:02Z</published>
   <updated>2011-09-21T01:48:23Z</updated>
   
   <summary>日曜に「メタボリズムの未来都市展」＠森美術館のシンポジウムを見てきた。文字どおり...</summary>
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      <name>石川義正</name>
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      日曜に「メタボリズムの未来都市展」＠森美術館のシンポジウムを見てきた。文字どおりメタボリの当事者たちとレム・コールハースを目に収めたいだけだったので、休憩中に導師のごとき風体の磯崎新が相変わらずダンディな槇文彦に挨拶するシーンを横目で眺めてきただけでボクとしては充分満足だったのだ。
ただ、とりわけシンポ第2部「メタボリズムという政治Metabolisum as politics」は看過できない内容だったので、ちょっとだけ覚書と感想を記しておく。
      第2部の出演者は「プロジェクト・ジャパン」をまもなく発刊するコールハースのほかに、東浩紀、御厨貴、そしてモデレーターの八束はじめという面々だったのだが、何が話されていたのか、正直なところまったく記憶にない。
 沈滞した空気の中、「こういう脱領域的な座談会を仕切れるのはやっぱり浅田彰だけなんだなあ」とボンヤリ思っていたところに、客席にいた磯崎の喝が入って会場はにわかに白熱し、コールハースがなんだかとても嬉しそうにしていたのが印象的だったのだが、磯崎御大いわく「戦後の廃墟のうえに成立したメタボリは「悲劇」だったが、3.11後のこのシンポは「笑劇」（マルクス）にすぎない、とキミらは自覚しているのか？　ぜんぜん笑わせてくれないじゃないか！」
 で、磯崎の発言に対して、露骨に不愉快そうに「メタボリも建築業界のことも知らないボクが詰まらなくてスミマセン」と拗ねてみせる東の対応はコールハースとの器量の差を露呈してしまったが、ともあれその発言を引き取って八束がコールハース＝ルイ・ボナパルト説をちらっと仄めかしたのは、これは建築史的に案外と正鵠を射ている気もする。

しかしそんな場外からの介入にもかかわらず話は結局グダグダで推移していったのだが、それというのもタイトルに「政治」と掲げておきながら、この面々が政治という概念をまったく明確な問題意識で支えられなかったからだった。
 当事者の自覚とは異なる水準で作用している「政治」を問うというなら、それはメタボリに対する批判のみならず、それを語る出演者の立ち位置に対する問いでもあるはずだ。
 メタボリが吉田茂以降の戦後政治の大きな文脈の中でしかるべく配置され、丹下研が政府のシンクタンクのような役割を果たしていたというのは、「建築」という自律的な分野で大きな仕事を成し遂げてきた磯崎や槇への批判には当然なりうる視点ではある。
 だが、その問いは同時に産学共同システムにどっぷり浸かった大学や国家の内部で仕事をしている現代日本の建築家たち自身の「政治」意識にまずは向けられるべきだ、という点に出演者一同がまったく無自覚なのには、ほとんど驚愕するほかはない（しかも彼らの立ち位置は、グローバリゼーションを背景に大学や国家をある意味で手足のように使役しうるコールハースのようなスター建築家にとっての「政治」とも異なるはずである）。
 そのあげくに、最後に質問に立った若手有望建築家が「官僚といいお付き合いをするにはどうしたらいいんでしょう？」（大意）とカマトトぶって官僚べったりの政治学者に尋ねるの図というのは、知の退廃というか崩壊そのものを見せつけられた気がして、何とも気色の悪い見世物なのだった。

会場からも八束の著書「メタボリズム・ネクサス」について「時代錯誤」と批判されていたのだが、じつは八束のこの本には原子力発電に関する記述がまったくなく、今回のシンポでも一言も触れられていない。
 だが、メタボリは状況的にも人脈的にも原子力発電とは腹違いの兄弟みたいなものであるのは明らかであり、今「メタボリの政治」を問うとしたらこれを除いていったい何ができるというのだ？

というか、このシンポについてその「政治」的意図というのを勘案するなら、要するにメタボリの（槇に代表される）「戦後民主主義」的な側面は否定して、その一方で官民学一体の「40年体制」再建（だから原子力については無批判）というのが今回のテーマだったのにちがいない（ちなみに八束が「ダイヤモンド・オンライン」で語っていた中央集権的復興構想は露骨にそうだと思う）。そりゃ浅田彰は呼べないよな。
 しかしグランドデザインの復興に官僚との協力が不可欠というのが結論というなら、もっともらしく学術的なふりで「政治」を語る前に（その程度のこともできていなかったが）、彼ら自身の具体的な政治背景について、もうすこし明確にしたほうが正直というものである。
 まあ、その意味では民主党の悪口を繰り返していた御厨は案外実直だったのかな。
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   <title>「早稲田文学 4号」に寄稿しました</title>
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   <published>2011-09-13T06:36:41Z</published>
   <updated>2011-09-13T06:41:08Z</updated>
   
   <summary>なんだか公私ともどもむやみと忙殺されて、こちらの更新をサボっておりますが、「早稲...</summary>
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      <name>石川義正</name>
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      なんだか公私ともどもむやみと忙殺されて、こちらの更新をサボっておりますが、「早稲田文学 4号」に「中原昌也の「熱気球」―小説空間のモダニティ２」という論考を寄稿しました。
Amazon等で発売中です。
      
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   <title>いろいろ書きたいことはあるんだけど</title>
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   <published>2011-08-31T16:18:02Z</published>
   <updated>2011-08-31T16:19:15Z</updated>
   
   <summary>スケジュール的に切羽詰りすぎてるので原稿作業優先させていただきます～；；； 手が...</summary>
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      <name>月野定規</name>
      
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      スケジュール的に切羽詰りすぎてるので原稿作業優先させていただきます～；；；
手が遅いってのは…罪ねぇ；；
      
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   <title>明日の頒布物についてとその他の宣伝です～</title>
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   <published>2011-08-13T01:40:28Z</published>
   <updated>2011-08-13T02:04:36Z</updated>
   
   <summary>明日のイベントブースにて頒布するアイテムは以下になります。 新刊 ・やさしい叔母...</summary>
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      <name>月野定規</name>
      
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      <![CDATA[明日のイベントブースにて頒布するアイテムは以下になります。

新刊
・やさしい叔母のしつけかた

既刊
・むうんるうらあくろにくるイベント仕様ＢＯＸセット
・はるか18SS

上記3アイテムのどれにも会場ではブース購入特典のオマケ本が付きます。（付くオマケ本はそれぞれ異なります）
既刊の2つは去年の夏に作った本です。まだ若干在庫があるので搬入致します。
また、新刊はイベント翌日の15日より、とらのあな、メロンブックスにて委託販売を開始致します。

明日も恐らく酷暑となるでしょうから、イベントに参加される方はとにかく熱中症対策だけはしっかりと施していらしてください！！
お待ちしております～。

上記以外の既刊については、
昨冬発行の「+まとめ本」はメロンブックスにて（とらのあなの方ではお陰様で売り切れました）、

<a href="http://shop.melonbooks.co.jp/shop/sp_212001037459_munruura_plus1.php">http://shop.melonbooks.co.jp/shop/sp_212001037459_munruura_plus1.php</a>

それ以前の本はとらのあなにて、
<a href="http://www.toranoana.jp/mailorder/cot/circle/51/54/5730303535343531/a4e0a4a6a4f3a4eba4a6a4e9a4a2_01.html">http://www.toranoana.jp/mailorder/cot/circle/51/54/5730303535343531/a4e0a4a6a4f3a4eba4a6a4e9a4a2_01.html</a>

それぞれ販売中でございます。
よろしくお願い致します～☆]]>
      
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   <title>リトル・ピープルの「時代」？</title>
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   <published>2011-08-11T03:25:49Z</published>
   <updated>2011-08-11T12:30:16Z</updated>
   
   <summary>韓国戦、日本代表は強かったけど、韓国はなんだか八百長問題で揺れる韓国サッカー界の...</summary>
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      <name>石川義正</name>
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      韓国戦、日本代表は強かったけど、韓国はなんだか八百長問題で揺れる韓国サッカー界の今後が人ごとながら心配になるような生気のなさだった。
そういえばトルシエ時代にオリンピック代表がアウエイで韓国をボコって、それが遠因となってヒディンクが呼ばれたと記憶しているけど、今回はどうなるんだろ。
もし韓国協会に力があれば、アルゼンチンあたりから有名監督をひっぱってこよう、なんで考えるんじゃないだろうか。
チソンが引退して難しい時期ということもあるので、このまま韓国が弱体化するとは考えられないけどね。

閑話休題。
最近、オウムの地下鉄サリン事件について思い出すことが多いのだけど、それはきっと東日本大震災をきっかけに文学者たちが堰を切ったように語り始めたことと無縁ではないのだろう。
つまり3.11は長らく続いたオウムの呪縛を解いたと思えるのだ。（中沢新一をはじめとして）文学者たちの多くは今回の震災と原発事故に関してはおおむね胸を張って「無罪」といえるからである（ちなみに90年代初頭に原発広報に関わる仕事をした経験があるボクには、そう簡単に無実とはいえません）。
むろん「無罪」というのは、そうした言説を文学としてどう評価すべきか、というのとはまったく別の問題である。
いっぽうオウムというのは――当時の記憶を同時代的に抱いている者にとっては――自分自身がそれになんらかのかたちで「加担」したのではないか、という不安や後ろめたさを拭いきれない対象だったはずだが、しかしその場合の「加担」とは何だったのか。
      ところで最近、故あって宇野常寛の「リトル・ピープルの時代」を読んでいるのだが、ある意味でこの著作は3.11以降の文学者の言説の典型的な有り様を示しているように思うのである。
「リトル・ピープルの時代」では、オウムをどんな時代背景に配置しているのか。

「60年代末、より具体的には1968年前後は、世界的にビッグ・ブラザーに対する反乱が起こった瞬間だったのだ。この30年の間にビッグ・ブラザーは壊死していった」
「奇しくも「1984年」にその母体となるカルト組織が結成されたオウム真理教は、まさに「新しい時代」の生んだ鬼子だった。価値相対主義と消費社会の浸透は大きな物語の喪失をより鮮明なものとし、モノはあっても物語のない消費社会に耐えられない「弱い」若者たちは〈ここではない、どこか〉を求めた。その反応のひとつが当時を席巻したオカルト・ブームであり、その過程で成立したオウム真理教はその鬼子だったのだ」

一見、自明なことを語っているかのようなこの叙述について、それを「分析」と呼ぶにはためらわれる。ビッグ・ブラザー＝大きな物語と「鬼子」と二度名指されるオウムとの論理的関連にまったく踏み込んでいないからである。にもかかわらずこの叙述が読者の感性的な記憶に合致するかのように思われるとすれば、それが「分析」ではなく時間的経緯に準じた「物語」を語っているからだ。
もちろんこうした「分析」的な意匠を施した物語（世代論）はとりたてて珍しいものではない。たとえば「リトル・ピープルの時代」が引用（依拠）する宮台真司の言説もまたそうした傾向を強く有している。「かくして、地下鉄サリン事件は起こった」という物語的言説こそ「リトル・ピープルの時代」の批評のコアなのだ。生産主体としての消費者、という観点はこの決断主義／機会主義的な言説性に保証されているのである。

オウムの事件に敏感に反応したのは、なにもここで扱われる村上春樹より以下の世代に限ったことではなくて、たとえば国際的な評価（それがこの著作の葵の御紋なのだが）という意味では村上春樹に優に匹敵する大江健三郎や磯崎新がすぐに思い浮かぶ。
「ビッグ・ブラザーとはウルトラマンであり、リトル・ピープルとは仮面ライダーである」という宇野常寛のテーゼは、彼らを前にすればもちろんまったくリアリティを失うだろうし、話者自身の視界からも彼らの存在は完全に排除されているが、もちろん「「かくして」という物語的言説」で大江や磯崎を扱うことが不可能だからである。
それは彼らがオウムを「鬼子」（それは「小さなビッグ・ブラザー」なのか「リトル・ピープルの生む「悪」」なのか？）などといった通俗なイメージではなく、（反）国家的な表象／代行性の臨界として捉えているからにほかならない。大江であれば「同時代ゲーム」から「燃えあがる緑の木」にいたる根拠地（共同体）の思想がオウムに同時代的に共振する面があったわけだし、磯崎ならば反・万博としての「つくばセンタービル」の延長線上にサティアンが顕現したのだといってよい。（ここでの表現を借りれば）「悪」に事後的に「加担」することになった責務がそこには生じる。

この著作の話者の叙述はあきらかにオウム（麻原彰晃）の側からではなく、オウムに惹かれた当時の若者に視点を置いている。しかしそれはモノを享受するバブル的な消費行動と根を共にする受動性と違いはないのだ。いずれにせよ大江や磯崎のような戦後日本の（反）国家的な表象としてのオウムという視点は、「リトル・ピープルの時代」が前提とする消費的存在の一義性にはまったく包括しえないものである。
「リトル・ピープルの時代」では、村上春樹の言説がオウム事件を境に「デタッチメント」から「コミットメント」に変化した、としている。だがここでの「デタッチメント」（消費）も「コミットメント」（生産）も、どちらも消費的存在の一義性＝無差異（無関心）を前提としているに過ぎず、そこには機会主義以上の契機は見出せない。しかしだからこそ消費者には「加担」という意識もなく「時代精神」としてオウムを論じる立場が保証されている。
（ただし村上春樹の作品は消費者ではなく表象／代行する者としての側面をあきらかに抱えているのだが、ここで触れる余裕はない）

話者の主張する「コミットメント」も消費的存在の一義性の内側にある。表象する主体ではなく、消費者の一人として「物語」ること。それは「時代」に内在することと「時代」のメタレベルに立つことを同時に可能にする。つまり「リトル・ピープルの時代」と呼ばれる宇野常寛の「われらの時代」を語ることを可能にするだろうが、しかし「リトル・ピープル」を生み出す構造の分析にはたどり着きそうにない。そこではせいぜい「グローバル資本主義」であり「システム」であり「貨幣と情報のネットワーク」である、とさまざまに言い換えられるにすぎないだろう。
「リトル・ピープルとは仮面ライダーである」という言明には、消費者もまた話者である／話者もまた消費者である、という以上のメッセージは含まれてはおらず、このレトリックを共有することが時代精神への参加（生産と消費が等価であるような「コミットメント」）となりうる、とされる。おそらくそれを（連合赤軍とオウム、つまり大江健三郎や磯崎新といった「悪」を排除した後の）「小さな「父」たちのコミュニケーション」と呼ぶのだ。
もっとも、そうした「コミットメント」はすでに80年代に（たとえば四方田犬彦が中上健次――この作家も宇野によって「もはや論じるに値しない」と排除された一人だ――に依拠して「ブラザーフット」（兄弟仁義！）を論じたように）先駆的に論じられてきた主題ではあるのだが。

「「リトル・ピープルの時代」の暴力は、連合赤軍やオウム真理教の代表するカルト的な想像力とはあきらかに異なっている」という言明はボクにはとうてい事実とは思えない。むしろ「グローバル化／ネットワーク化した」今日の世界では、国家そのものがカルト化しつつあるのではないのか。アメリカのティー・パーティはその典型だし、日本やロシア、南米諸国もおそらくそうだろう。歴史はこの著作の話者が想定するように単線的に進行（進化）したりはしないのだ。
宇野常寛は年齢的にオウムについて主体的な「加担」を語れない世代に属するが、まさに無差異（無関心）を前提とする立場によって3.11をかくも容易に時代精神として（「悪」に「加担」せずに）位置づけることができるのである。
もちろん、そうした「無罪」性は、村上春樹より以前の作家たちの意図的な軽視と無視、という政治的な排除を通して遂行されたフレームアップにすぎない（機会主義的な言説性はこうしたフレームアップのために選択されたともいえる）。
だが、一方でこうした語りによって若い読者たちは、自分も「貨幣と情報のネットワーク」に「無罪」のまま参加（ハッキング）できる、と安堵することができる。今日の社会に有用な文学とはきっとこうした著作のことをいうのだろう。
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